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【環境倫理学ブログ】東北大震災にみる人間と自然の倫理

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震災前の穏やかないわき市の砂浜(新舞子浜)。はるか彼方に福島第二原発を望む。


波が引いたあと、自然をはるかに超えた力を手に入れたという私たちの思い込みは、覆されていました。人間が作り上げてきたものは、思っていたよりも儚いものでした。
私たちはたしかに自然の一部であり、人間が造ってきたどんな建造物も、やはり自然に還っていくべきものでした。もちろん、人間自身も死んで自然に還っていきます。それを自覚していた昔の人々は、自然、そしてそのうちに生きる人間のうちに無常というものを見つめていました。


人間の生き方を考える倫理は、人間のことを考えるだけでは足りなかった、それは地球規模の環境問題で見えてきた問題でしたが、それでも私たちは自分たちを自然のほんの一部として見ることができなかった。温暖化を克服するための原子力発電という選択は、もしかすると、蟷螂の斧であったのかもしれません。


これからこの災害をきっかけに大きく環境倫理思想も変わってくるかもしれません。近代的な合理主義の考え方の限界は、現代文明を支えている巨大な科学技術の限界として、誰もが認めるものとなりました。隠されてきた人間の死が目の当たりにされて、人間はわずかな寿命の差こそあれ、いずれにしても、ほんの短く儚い一生を終える。もはや、だれもが古人のように覚悟しなければならないのだと、否応なく気づかされました。古人の人間の一生に対する深い思いに、ようやく思い当たることができたのだともいます。


契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 なみこさじとは


私ごとですが、以前住み慣れた多賀城に被害が大きかったことには心が痛みました。百人一首に歌われた多賀城の末の松山にまで波が到達したのは、平安時代の貞観の津波以来です。当時、数千人が犠牲になったといわれるその同じ場所で、千年のときを経て多くの犠牲者が出てしまいました。千年を経ても人間と自然とが全く同じ関係にあったということです。


災害や環境破壊に備えて、さらに巨大な構造物を日本中に、あるいは世界中に建設するのか、あるいは、人間と自然との関係に自覚した古くて新しい生き方を見つけようとするのか、環境倫理学はこの問題を考え抜かなければなりません。






(ゼミ担当教員 内藤可夫)



次回は【人間関係論ゼミ】です。

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